失われた木の記憶を呼び戻す時代に(前編) | 国産木材を活かす繋げる|MOCTION(モクション)

失われた木の記憶を呼び戻す時代に(前編)

隈館長友人の皆さまによる寄稿コラム

隈館長による執筆者の紹介

飯島洋一さんは、単なる建築討論者ではない。建築を通して彼は世界全体の構造を把握する、たぐいまれな思想家である。

彼は木の建築史の全体と、木、コンクリート、鉄といった材料を中心に論じるという、今までに例のないような歴史の記述方法を飯島さんは提示してくれた。この方法は、単に木造の本質をつまびらかにするだけではなく、歴史全体の構造をかいまみせてくれた。

飯島 洋一(いいじま よういち)
1959年東京都生まれ。建築評論家、多摩美術大学教授。1983年早稲田大学理工学部建築学科卒、1985年同大学院建築計画専攻修士課程修了。1985年清水建設本社設計部(~88年)1995年多摩美術大学美術学部芸術学科助教授、1998年同環境デザイン学科助教授、2004年同環境デザイン学科教授、2008年同共通教育学科(現在、共通教育学科はリベラルアーツセンターに改称)教授。2003年にサントリー学芸賞受賞。著書に『「らしい」建築批判』『アンビルトの終わり』(以上、青土社)など。現在、毎日新聞の読書欄で、書評を定期的に執筆中。

著書
『光のドラマトゥルギー 20世紀の建築』青土社(1990)/『37人の建築家 現代建築の状況』福武ブックス(1990)/『建築のアポカリプス もう一つの20世紀精神史』青土社(1992)/『現代建築の50人』INAX出版・INAX叢書(1993)『アメリカ建築のアルケオロジー』青土社(1993)/『終末的建築症候群』PARCO出版、(1994)/『王の身体都市 昭和天皇の時代と建築』青土社(1996)/『映画のなかの現代建築』彰国社(1996)/『<ミシマ>から<オウム>へ 三島由紀夫と近代』平凡社選書(1998)/『現代建築・アウシュヴィッツ以後』青土社(2002)/『現代建築・テロ以前/以後』青土社(2002)/『キーワードで読む現代建築ガイド』平凡社新書(2003)/『建築と破壊 思想としての現代』青土社(2006)/『グラウンド・ゼロと現代建築』青土社(2006)/『破局論』青土社(2013)/『「らしい」建築批判』青土社(2014)/『建築と歴史 「戦災」から「震災」まで』青土社(2015)/『アンビルトの終わり ザハ・ハディドと新国立競技場』青土社(2020)

受賞歴
サントリー学芸賞(2003)

近代化の「見える化」となった建築物。建築は木から離れて煉瓦へ

 国内産の木を使うケースが減っている。背景には国内の林業の制度の問題や輸入材の流通、木の再生エネルギーとしての活用など、諸々の要因が関係している。必然的に木造建築の数も減少しているわけだが、ここではその話とは別に、この150年間の間に、なぜ木造建築が少なくなったのか、その理由を別の視点、「近代日本の建築史」を通して、再考してみようと思う。
 日本の建築は周知のように、江戸時代までは木造建築が中心だった。だが、明治時代になると欧米列強と肩を並べるため、明治政府の基本路線から建築も西洋の建築様式を取り入れることになる。とくに国家のシンボルとなる建築は、西洋式につくることが大前提になった。なぜなら日本が欧米のような国に近づいたことを、内外の人々に「見える化」するためには、建築の意匠は宣伝手段になったからである。そのために国家が主体となって、日本に欧米のような建築と建築家を誕生させるというプロジェクトがスタートする。

奈良井宿・重要伝統的建造物群保存地区
鹿鳴館(1883年。現存せず)

 それに基づいて、御雇建築家というイギリス人などの建築家たちが、日本人の建築家を誕生させるために来日した。たとえば『鹿鳴館』(1883年)をつくったジョサイア・コンドルがその代表的な一人だ。コンドルが育てた日本の近代建築家の第一号が『東京駅』(大正3年)や『日本銀行』(1896年)を煉瓦で手がけた辰野金吾であり、『赤坂離宮』(1909年)をつくった片山東熊である。辰野や片山ら明治時代の建築家たちは、西洋の伝統様式に倣った国家のシンボルをつくるミッションを与えられ、彼らはそれをマスターすることだけに邁進した。そして明治時代の終わりには、その目標を達成する。

鉄とコンクリートによる建設システムの確立

 ただし、辰野らが手掛けたのは西洋の石や煉瓦の建築であり、木材の建築ではない。「西洋の建築史」の中に燦然と輝く建築は、古代ギリシアのパルテノン神殿を頂点とする石や煉瓦造ばかりだからである。辰野らはそれら「のみ」を手本とした。すると必然的に「明治以前の木造建築の記憶は忘れられていく」ことになる。
 辰野金吾の次の世代の建築家たちは、「日本の伝統」という、「忘れられた宿題」と向き合うことになる。伊東忠太や大江新太郎がその例として挙げられるが、それでも大江新太郎の『明治神宮宝物殿』(1921年)のように、日本の伝統建築は再考されても「木造建築が蘇る」ことはなかった。なぜなら『明治神宮宝物殿』では、木造の正倉院の校倉造りを手本としながら、鉄筋コンクリート造で置き換えられていたからである。

明治神宮宝物殿(1921年)重要文化財
同潤会青山アパートメント(2003年解体、一部保存)

 一方、明治末年には『三井貸事務所』(1912年)のように、アメリカの鉄骨造のオフィスビルが横川民輔によって実現された。こうした新しいビルの登場は、辰野金吾らが固執していた西洋の建築の「様式」から自由であり、合理的でシンプルな、工業的な生産方式による建築を鉄やコンクリートでつくられていた。そしてこの近代的な建設システムも、木の建築の激減と大きく関係している。よく言われるように、木や石は自然から採取する。だから生産は合理的な素材とは言いにくい。だが工場で大量生産される鉄などによる近代的な素材は、合理的、機械的に工場で生産することができる。つまり明治以降の近代化された建設システムがいったん確立すると、「木造を忘れる」ように近代建築は発展して行ったのである。
 1923年に関東大震災が起きると、木造建築は火に弱いという弱点が改めて見直されて、一連の『同潤会アパート』のような鉄筋コンクリートで集合住宅がつくられた。さらに1924年にアントニン・レーモンドが麻布に『自邸』をコンクリートでつくり、それが堀口捨己らモダニストの建築家たちを刺激して、そしてこのコンクリートの系譜は、レーモンドに師事した前川國男、さらに前川の弟子の丹下健三へと受け継がれ、戦後の建築を構成する。