伊藤 亜紗(いとう あさ)
東京工業大学 科学技術創成研究院 未来の人類研究センター長。リベラルアーツ研究教育院教授。東京工業大学環境・社会理工学院社会・人間科学コース教授。MIT 客員研究員(2019.3-8)
2010年に東京大学大学院人文社会系研究科基礎文化研究美学芸術学専門分野を単位取得のうえ、退学。同年、同大学にて博士号を取得(文学)。日本学術振興会特別研究員を経て、2013年に東京工業大学リベラルアーツセンター准教授に着任。2016年4月より現職。
主要著書
『ヴァレリーの芸術哲学、あるいは身体の解剖』(水声社)、『目の見えない人は世界をどう見ているのか』(光文社新書)、『目の見えないアスリートの身体論』(潮出版社)、『どもる体』(医学書院)、『記憶する体』(春秋社)、『手の倫理』(講談社)など
受賞歴
WIRED Audi INNOVATION AWARD 2017。第13回[池田晶子記念]わたくし、つまりNobody賞(2020)。第42回サントリー学芸賞。
松隈の小水力発電
大学の同僚とチームをつくり、「利他」について共同研究している。利他とは利己の反対。人や社会の活動が他者のために作用すること。利他は近年コロナ禍で世界的に注目されたが、新しいというよりはむしろ古くて懐かしい概念である。生産活動が一時的に停止したことによって、人間の営みの土台の部分にあった前近代的な感覚が見直されるようになったように思う。
利他というと必ず出てくるのが、共有資源すなわちコモンズをいかに共同管理するか、という問題である。近代的な所有概念がなかった江戸期までの日本においては、入会地と呼ばれる山林や草刈場、あるいは川などを、村や集落みんなで手入れして共同で使う仕組みがあった。こうした仕組みが成立しえたのは、多くの人が農業・林業・漁業といった第一次産業に従事していたからである。彼らにとっては、山や草場や川を適切な状態に保つことが、自分たちの生業の成否に直結していた。
ところが近代化の進展により、第一次産業に従事する人は減少していった。人々のくらしと山や川とのつながりは薄くなり、それらは遠くから眺める景色の一部になってしまった。しかし人間の態度が変わろうとも、依然として山や川が手入れを必要としていることには変わりない。下草を刈ったり、川底にたまった落ち葉を掃除したりすることを怠れば、里山の生態系は壊れ、下流で洪水が起きるリスクが高まるだろう。
この問題を画期的な方法で解決した集落があると聞いて興味をもち、2024年1月末に現地を案内していただいた。場所は佐賀県、有名な吉野ヶ里遺跡の近くにある松隈という地区である。緑豊かな山間部に位置するが、農業離れが進み、休耕田や荒廃田が目立つ。現在では、全40戸のうち稲作農家はわずか3戸まで減っているという。山林や農地の保全が難しくなっていることに加えて、高齢化率も約41%と高く、日本の他の地域と同じような課題をいくつも抱えている。
そこでこの地区が2020年から取り組んでいるのが、古くからある農業用水を活用した小水力発電である。小水力発電によって以前ほど使われなくなった農業用水を再資源化するとともに、得た電力を売電し、その利益を地域の課題解決のための財源として活用しているのである。
一般的なダムの出力が1万kWh程度なのに対し、小水力発電は基本的に1000kWh以下、その中でも松隈のものは30kWhとかなり小さい。ダムのように水を溜めずに地中に埋めた導水管に一気に水を流し、その勢いでタービンを回して発電する仕組みだ。発電所そのものは3.6×2.5mの小さなコンテナに入るサイズである。
このダムを作るのに、5,900万円の費用を要した。松隈地区では、40戸全戸を株主とする株式会社を設立し、政策金融公庫からの融資と地区からの借入によって資金を調達した。集落のスケールからすると大きな借金だが、20年で元がとれるモデルである。規模が小さいためかえって年間を通じて安定した発電が見込め、約800万円の売電収入がある。償還や経費を差し引いても年間190万円が地区の会計に計上されることになる。これまでの松隈地区の予算規模が120万円だったというから、一気に倍以上になったことになる。