海野 聡(うんの さとし)
1983年、千葉県生まれ。東京大学工学系研究科建築学専攻准教授。博士(工学)。専門は日本建築史、文化財。
2009年、東京大学大学院工学系研究科建築学専攻博士課程中退。2013年、東京大学より学位授与 博士(工学)。
2009年から奈良県文化財研究所研究員を経て、 2018年から現職。
主要著書:
『森と木と建築の日本史』(岩波書店)『奈良で学ぶ 寺院建築入門』(集英社新書)/『日本建築史講義-木造建築がひもとく技術と社会』(学芸出版社)/『古建築を復元する―過去と現在の架け橋』(吉川弘文館)/『建物が語る日本の歴史』(吉川弘文館)など
文化財修理・復元等:
薬師寺東塔/興福寺五重塔/旧加賀屋敷御守殿門(赤門)/平城宮第一次大極殿院など
日本の建築文化をはぐくんできた木
輸送手段が未発達の時代には、遠方からの運搬は難しく、周辺にある材料を用いて建物が造られた。ヨーロッパの石造、中東や北アフリカの日干しレンガなど、材料とその供給地は深い関係にあり、日本の場合も同様である。
最古の法隆寺金堂をはじめ、ほとんどが木造建築であることを見れば、その様子は明らかであろう。日本列島の豊富な森林資源の環境が日本建築の文化をはぐくんできたのである。そこには過去・現在、そして未来という歴史が積み重ねられ、長い時間軸のなかで古建築は息づいている。
同時にかつては木を使うことで、森と人が共生しており、両者の距離は近かったが、戦後、外国産材の利用が進み、木材需要量自体も、1973年をピークに減少傾向にある。その結果、人々と木、さらには森との距離が離れ、木も単なる物質としてしか扱われなくなりつつある。
日本の歴史を紐とけば、巨木に対する信仰や巨材の運搬の宗教儀礼などにも木の特別な観念的意義が見える。木は単なる物質ではなく、特別な存在であったのである。さらに茶室や数寄屋などでは、樹種や木取りにまでこだわって銘木という文化にまで昇華させている。こうした感覚も工業製品があふれる現代社会では失われつつあるが、グローバリゼーションの名のもと、文化的にも画一化が進んできたことと無関係ではなかろう。
木への想いと儀式
建築に使われる材料のなかでも、木は面白い文化的側面を持っている。日本列島ではひとびとは巨大なスギやクスノキなどに信仰心を抱き、ご神木として祀ってきた。その生命力に対して、畏敬の念を抱き、霊験を感じるのであろう。
こうした立木の状態だけではなく、諏訪大社の御柱祭、伊勢神宮や出雲大社のような社殿の中央に立つ心御柱(しんのみはしら)※1や塔の心柱など、太い柱は人の心を惹きつけてきた。伊勢神宮では心御柱は床下に収められ、建築の構造を担ってはいない。また出雲大社では中央の柱は野梁を支えているが構造が主たる役割ではない。それにもかかわらず、心御柱は棟木を直接支え、構造的にもより重要な宇豆柱(うづばしら)※2よりも太い。いずれも建築の構造合理性を超えた精神的存在である。
つまり木材は単なる物質なのではなく、命を宿していた樹木から転生したものとみているのである。その高い精神性は伊勢神宮の遷宮の儀礼にも看取できる。杣山※3に入っての木材の採取、すなわち山の生命をいただく行為の前に山口祭をおこない、伐出と運搬の安全を祈る、そして心御柱の採取は特に重要で、深夜に木本祭(このもとさい)が執り行われる。御杣山(みそまやま)はもともと伊勢神宮周辺であったが、森林環境の悪化により、これが木曽へと移っても、心御柱だけは伊勢神宮の周辺の杣山からの採取にこだわっている。ここにも単なる木という物質ではなく、伊勢の山からの強い系譜が根付いているのだ。つまり木を単なる材料として捉えるのではなく、生命の結実としての樹木、それをはぐくむ森という観念的な価値を見出しているのである。
※1 伊勢両宮の神殿の床下中央に建てられた檜の柱。社殿の中心に立つ柱だが、建築を支える構造的な役割はなく、神宮祭祀上できわめて神秘な存在として重んじられている。20年ごとの式年遷宮では、特別にその用材を伐採するための木本祭と、これを建てる心御柱祭とがいずれも夜間の秘儀とし執り行われる。
※2 両妻の柱の外にあって棟を支える棟持柱(むなもちばしら)の古称。
※3 建築等のための材木を切り出す山の古称。伊勢神宮の遷宮に使用される杣山は御杣山(みそまやま)と称えられている。
受け継がれる木
木は建物を構成する材料として、また単なる材料を超えた存在として受け継がれる。前者は物質的価値から柱や小屋組などを再利用するもので、前近代の「もったいない」の精神で、他の材料でもよくみられる行為である。
もうひとつが、精神的に高い価値を帯びた木材が下賜される例である。伊勢神宮の正殿(しょうでん)の棟持柱は20年にわたって用いられたのち、遷宮で解体され、宇治橋の鳥居へと生まれ変わる。そこで20年の時を刻んだのち、桑名の七里の渡しと関宿追分へと移される。
つまり、伊勢神宮の部材は社殿としての20年で命尽きるわけではなく、別の部材として転生してからも長きにわたって受け継がれるのである。こうした精神性に重きを置いた受け継ぐ行為は他の部材や材料にはない木の特徴であり、日本における木に対する強い精神性が表れているのである。
樹種の知識の歴史
日本の歴史的建造物をつぶさに見ていくと、古代にはヒノキが好んで用いられた様子がわかる。ヒノキは日本固有の樹種で、福島県を北限としており、比較的加工しやすく、粘りのある建築材料に適した木である。ヒノキ以外にはスギやマツも多く用いられているが、特に固いケヤキやクリなどは加工が難しいこともあり、建物の荷重のかかる隅の部分や土台などの部位に限定的に使っている。薬師寺東塔の大斗などでは、その上にのせる肘木と一体化させることで、さらに強化している。
こうした樹種の使い分けは『日本書紀』にも記されており、ヒノキは宮殿、スギとクスは舟、マキは棺とそれぞれの樹種の特徴を生かした使い分けを提示している。さらにコウヤマキの棺に至っては海を越えて、朝鮮半島でも発見されている。コウヤマキもヒノキと植生限界の範囲が近似し、日本列島の固有種であるので、日本から運ばれたのであろう。
同じように、植生限界を超える東北地方ではヒノキやコウヤマキの使用は難しいが、こうした地域で使っていると、わざわざ木を遠方から持ってきて使っているという様子も見えてくる。例えば、岩手県の平泉でコウヤマキが用いられる状況は奥州藤原氏の支配領域や広域の交易なども想起させる。たった一つの木の樹種を通して、当時の物の流通までが垣間見えるのである。
木を通したネットワーク
古代、特に奈良時代には都城や宮殿、寺院と大量の造営が同時におこなわれており、同時かつ大量の造営に対する対応が求められた。技術者に関しては、社会システムとして、木工寮(もくりょう)※を中心とする造営体制が整えられ、これによって、技術者の差配という大量造営への対応策を講じた。しかし大量造営に必要なのは技術者のみではなく、大量の木材も欠かせない。加えて古代建築に用いられる木材は比較的大きいものが多く、その確保にもシステムの構築が求められた。
そのための採材の組織が信楽や高島などに杣(そま)が設けられ、そこから都へと供給を続ける体制を構築している。さらに大量の木材を効率的に使うため、柱間寸法の規格化や校倉の規模の規格化などの知恵も見える。こうした木を通したネットワークが古代の建設、さらには古代国家を支えたのである。
※ 律令制で、宮内省所管の官司。多くの技術者が所属しており、宮中の造営および木材の準備をつかさどる。
安定的な木材の供給へ
日本では文化財建造物の修理の際に、部材の取り替えが必要になることも少なくない。その際には、同形同大はもちろん、樹種や木の等級も元の材とそろえる。むろん、取り替えと言っても、部位によってさまざまであり、柱や梁などの軸部は健全であることも多いが、即物性の葺材の葺き替えは20-30年と短く、更新を前提としている。そのため茅葺のための葦や檜皮など、安定的な供給源はかかせない。現代には供給と消費のサイクルが途切れているが、前近代には両者は両輪であったから、むしろ更新材は地元で確保できたほうが都合がよい。結果的に、地元での材料確保と集落の共同作業としての葺替えは持続可能な地域社会の象徴であった。
また鎌倉時代以前の古建築には、径の大きな材や長材を用いることも多く、これが力強い建築と未熟な建築技術を補完してきた。しかし巨大な部材の取り替えとなると、現代社会において、通常の林業の規格を超えており、その確保は困難である。それゆえ母なる森へと手を差し伸べ、未来の修理用材となる木を育てるふるさと文化財の森というプロジェクトも進んでいる。
このように、木を単なる材料として確保するだけではなく、その木の生産まで配慮し、保存の範疇に取り込んでいる。日本の木造の古建築は豊かな森によってはぐくまれてきたが、現代には古建築を次世代に受け継ぐために、森をはぐくむ努力が積み重ねられているのである。